◆ 或る独白、人形兵の
この世界に太陽はない。
月もない。星もない。
この世界には空がない。
朝も昼も夜もない。雨も降らない。風も吹かない。
ただ、血の雨が降ることはある。
その雨の熱さを、痛みを、匂いを、魔女様は知らない。
暗く深い迷宮の中。私たちは黙々と歩を進める。
両手に提げた剣は重い。重く、硬く、鋭い。
この剣の来歴を、私は知らない。知っているのは、その恐ろしい切れ味だけ。もう随分と長いあいだ、私はこの双剣を愛用している。
魔女様は、私に剣を授けてくれた。使命を与えてくれた。滅ぼすべき敵、果てしのない迷宮、隠された秘宝──成すべきことの全て。生きる目的の全てを与えてくれた。
私は期待されている。魔女様に必要とされている。この旅団で私ほど敵を屠ってきた者はいない。私は誰よりも強い。強くなければならない。強さだけが私の存在意義。旅団の誰にも負けない。男にも、女にも。
絶対の自信が、私にはある。
鏡の前以外では。
この獄界は、おおよそ静かで。いつでも冷たい。
静寂が破られるのは、決まって戦いの合図だ。
魑魅魍魎と呼ぶほかない異形の化け物どもが、迷宮には跋扈している。
何故そんなものが存在するのか、何故そんなものたちを斃さなければならないのか──私にはわからない。私だけではない。仲間たちの誰も知らない。だれひとり、この世界の仕組みを、真実を、知らない。
それを知るために戦っているのかもしれない、戦わされているのかもしれない。
魔女様の目的も考えも、私には皆目わからない。それでも、私たちは戦うしかない。何もわからない目標のために。何も知らない魔女様のために。
そのことに不満はない。そのように作られているのかもしれない。
私たちは、魔女様の忠実な人形。化け物を殺し、迷宮を踏破するためだけに作られた、動く兵器。
できそこないの兵器だ。
これは恐らく魔女様の失策。私たちに感情などというものを与えるべきではなかった。熱も、匂いも、音も、痛みも、光も──最初から何もなければ、いっさい苦しまずに済んだだろう。
終わりのない無限の闇と静寂の中、私たちの靴音が響く。硬く冷たい石と鉄、腐臭を放つ泥と汚水、ところどころに何かの死骸や、その一部が散らばっている。魔法の光に照らし出される光景は限りなく陰惨で、ひとすじの希望も見えない。
濃密なマナの影響で生身の人間は迷宮に立ち入れないと聞くが、そうでなくとも私たちのような人形兵でなければ正気を保つことなどできないだろう。たとえ魔女様であろうと。
もっとも、私が正気を保てている自信はない。
もう随分と前から、私は精神を蝕まれている。人形兵としては有り得ない類の病に。
階段を降りるたび、未知の領域へ踏み込むたび、凝集された瘴気が私を狂わせる。
闇の向こうから現れた異形の生き物が、仲間たちの歩みを止める。
目を背けたくなるほどの──男根のような形の生物が立ちふさがる。
初めて対峙する、いつものように気色の悪い化け物ども。
いったい誰が、こんなものを生み出したのか。
神が? それとも悪魔が? ──どちらも同じようなものだ。
私の両手にある剣は、そういったものどもを二度と動かぬよう分断するため──。
兵器としての役割を果たすべく仲間たちが雄叫びをあげて突撃し、目のくらむような爆炎と剣閃が交錯して、誰のものかもわからない血や肉片が飛び散り、汚物と硝煙の匂いが広がる。
この世界に平穏はない。
戦うこと、勝つこと、奪うことだけが、私たちの存在意義。
ほかのことは何ひとつ求められない。何も。何も。
最初から、わかりきっていることだ。この体が、命が、与えられたときから。
血みどろの剣を引きずって、いつまででも、どこまででも、私は戦い続ける。
この戦いに終わりはない。死によって解放されることもない。バラバラにされて動けなくなることはあっても、死ぬことは決してない。いかなる敵も、最終的には必ず殲滅する。それが私の使命。魔女様のために。必ず──絶対に──
──気がつくと、私は魔女様の手の中にいた。
柔らかな温もりと、清浄な空気。ほのかな甘い匂いを感じる。魔女様の匂いだ。
じきに調子はずれの陽気な歌が聞こえて、ほそい指が私の胸に触れる。
その指に撫でられた箇所から微熱が走り、壊れていた私の体はたちどころに修復される。
どれほど破壊されようと、何度殺されようと、この指ひとつで私は元通りになる。ただ、その指先の温度だけは私を狂わさずにおかない。
触れられるたび、いつも思う。
どうか私を人間にしてください──。
そして貴女の隣に置いてください──。
それが無理ならば、私を抹消してください──と。
しかし。その願いを言葉にすることさえ、私にはできない。
この地上で、私は何もできない。戦うことも、走ることも、声を発することも、想いを告げることも。
私たちの世界に空はない。
太陽も月も星も、見ることができない。
ただ、それに近いものに触れることはできる。
どれほど切望しても決して得られることのない存在。
魂の魔女マズルカ様──。
その手は、どのような傷も病も瞬く間に癒してくれる。
けれど。この熱病を癒してくれることだけはない。
#ルフランSS